昭和45年12月01日 朝の御理解



 御理解 第48節
 『わが子の病気でも、かわいいかわいいと思うてうろたえるといけぬぞ。言うことを聞かぬ時に、ままよと思うてほっておくような気になって、信心してやれ。おかげが受けられる。』

 ままよと思うてほっておくような気と、これは私が真剣にならせて頂く。ね、お互いがそれはそれは我子の病気であると。しかも医者から見放されたと、と言う様な病気であればある程、親として真剣にならざるを得ない訳ですねぇ。そういう時にままよと思うと言う事は大変難しい事であります。信心の修行が本気でやっぱできとらなければ、出来ないもうままよというのを、死んだっちゃよかと言う様なままよではない訳ですよね。もう神様に縋る気力もなくなった、と言った様なもんではない訳ですよね。
 「ままよと思うてほって置く様な気になって信心してやれ」と。もうあきらめたと言うではなくて、ね、そういう気になって信心してやれと言う所。ですから是はね我子の病気でもとこう言われてる。と言う事は決して病気とかそう言う事だけではない。是はあらゆる事に通じる事です。昨日一昨日ですかね、福岡の杉山さんがある問題でお願いが、もうそれこそどうといって願い様がない。もう先生どうにもどうにも出来んのですからと。それでも矢張り神様へ、諦めてないわけですね。
 もういわば絶対どうにもならんと言うんだから、自分で。ね。それでも矢張り縋る。私はそれだと思うんです。ね。なんかもうそれこそ、今日はなかのっち。もう普通で言うなら溺れる者はわらをもつかむというけれども、先生そのわら一つすらがないと。というほどしにどうにもで、出来んという問題でした。帰ってきたら北出昨日、昨日の晩でしたかね、お願いにそれから、また昨日になった。
 昨日も何回も電話が掛って参りました。どうっち願いようがない。もう最後私は午後の奉仕のときでしたから、もう四時過ぎだったでしょうか。もう昨日がギリギリの日にちがあれし、もうそれこそどうにもできないわけです。ちょうど久富先生が電話を受けられた。繁雄さんからもうどうにも出来ん、又おんなし事どうにもできんのは、やっぱ電話かけてでも願わなければおられない。(?とりあえずですね、)
 そんとき私が頂きましたことはね、はいあのうお願いしますと言うてから、言うといて下さいと言って、久富先生にはそげん言って電話を切りましたが、私その後に頂いた事は願う信心にでなく、任せる信心と言う事を頂いた。いわ言わばこれはもうホントの事になるね。ままよと思うてすがってある信心と言う事だと。も夕べ御祈念を終らせて頂いて、一番月の末の日に、是はま皆さんに呼びかけてのものではありませんけれども、まぁ寄りよりの方達が皆んな集まって月末、ね。
 月末のお礼ゆいうをなりさして貰って、所謂信話会ですね共励会と言った様なもんじゃありません。もうとにかくまぁ十時の御祈念終ってから一時間十一時までこうやって輪を描いて、お広前に輪を描いてここでその色々信心話でもさして頂いて、お茶でも頂きながら今月一月の所謂宣言ですね。十一月一月のおかげを受けた、おかげをお礼をもうさせて頂きながらしかも神様のお礼の様な気持ちでお話し合いをするんです毎月。
 それをまぁ日曜日もさせて頂いておりますところへ、秋永先生と杉山さんが参ってみえられました。先生おかげを受けましたとこう言ってきました。もう話を聞きますともうホントにどうにもこうにも出来ないというても、神様の働きの中にはこういうまだ所があったという。こういういわば神様どういう手を使うて下さるか分からないな、というほどしのおかげを頂いて立ち直さにゃ、ならとにかくお礼に出らじゃこてというて、秋永先生が一緒にお礼に出て見えたわけです。
 ですから是はわが子の病気とゆ、病気の事だけじゃない。どういう事件でも又はどういううんなら経済問題でも、いわば難儀という難儀ですたい。どうにもこうにもというその難儀な問題でもです、おかげがいうそういう気になって信心してやれ、おかげが受けられると言う事になるのです。そこで私が皆さんにですね、是は夕べ三男さんが話しておられた事でしたけれども、先生もうどうにもしよんなしや。
 家おったってんどうにもしようがないから、自動車を東公園の中に入れてから、あの日蓮さんの銅像の後ろで、もうじっと自動車の中にしとった。どうしようがない。といわれるほどしでございましたが、ね、ここでねお互いがその一つ確信を持って頂きたいと言う事なんですよ。信心のよく最近はあのう、大分支部の共励会皆さんが参りますと、その出る事がですね、まあ誰でも信心のない間は、いいまあ言いたい放題のこと言います。まあ質問でも質問したい放題のことを質問します。
 それが信心しよってもね、えその例えば、どうして災難に遭うかとか、信心しよっても、どうしてあれ、ああかこうかと言った様な事なんです。是はね例えばそういう一つの問題でありましても絶対、神様には御都合があっての事ですよ。ね。是は例えばどういう災難とか難儀に直面いたしましても、それがめうえ説明するなら巡りのお取り払い。言うならまた、神様のご都合と。是に間違いないのです。
 所がならどういうご都合かというて分からん。巡りのお取り払いというてもです、巡りというものがそのう、借金なら借金と言う様な形に表れていないから分からん。まぁ言うならば、神様への一つの借金のようなもんですけれども、それも神様というても、姿がないし、ね、巡りというても、姿はないのですから。信心しよっても次々と難儀なことが起こってくる。それこそ今日の朝の御理解じゃないですけれども「荒熊のかけ散らしたる笹の雪」というように巡りに信心をしておっても、かけ散らされるようなです。
 掻き回される様な事がある。どうしてですかとこういうわけなんです。信心しよってもどれだけですかと。だから説明を信じて頂いて下さるんならま例えば御神意でも頂きゃ、巡りのお取り払いが神様の御都合ぞ。しかもこういう御都合ぞと言う事が分かるわけなんです。ところがなら信心の無い人信薄き人にはね、そういうその事では承知しないわけなんです。ねぇ。も少しえぁ実証的なハッキリした返事は、聞かれないものかというのが、是は信心の無い人達はそう言う事に申します。
 ですからそこんところをです、そういう深ぁい神様の御神意とか、御神慮がですわ信薄き人に分かる筈はないからです、ね。だからこういうふうに言う様な他にない。私いつもそう言うんですけれど、信心しよったって、やっぱ雨にも風にも会うよて私は言うんです、ね。信心しよっても災難に遭うよ、と例えば言うなら。病気もするよと実際言うたら、段々そりゃなくなってきますよね。
 けどそれ言うと分からんから、信心しておっても病気にもなりゃ、災難にも遭うんだと。それは雨風がいうなら、信心しとっても信心してなくっても、その雨風という自然の、そう言う様な働きには、遭わなきゃならんように、ね。けれどもね、信心さして頂いておるとね、例えば雨が降っても濡れんですむ。風が吹いても折れんですむというおかげは受けられると。ね。
 そういうときに例えばうんなら、悲しいことが起こっておってもです、それを人のように悲しい、なるほど悲しいことは悲しいけれども、お礼が申し上げれるほどしのものがあるから、その悲しいことと、お礼を申し上げることと、差し引くと、言うならば、平静にしておれるようなおかげが受けられる。いわゆる、折れんですむ。意気消沈して帰還して、そこから人生の、いわば運命を悪くしていく人、という人もあるけれどもです、そういうことではない。
 雨が降っても信心という傘をさしゃあ、濡れんですむようなおかげを受けられるということはですね、まそういう説明。だからそこんにきになると、少しは分かる。そういう神様のご都合だ、ね、めぐりのお取り払いだと、私だん信ずるから有り難いということになってくるけれども、信の薄い人、信心のない人にはそれは分からん。もうそれは、金光様の先生の逃げ口のように言う。私共もそう感じた時代があったです。
 困った事を申しお届けするとそりゃ神様の御都合じゃと。巡りのお取り払いだと。巡りのお取り払いとか、神様のご都合じゃもうこっちは承知はいかんち、言う様なとがやっぱりありますよね。分からんことだから。だからそれを言うたってしょうがない。けれどもそういうときに信心をさせて頂いておると、ホントに信心さして頂いておると、それが折れんですんだり、濡れんで済む様な、おかげを受けられる所まで信心を進めていけばね、おかげは受けられる。そこんにきになると、少しは分かってくるね。
 これだけは、それでも絶対なものとして言えることがあるのです。これだけは。成程信心しよっても災難に遭う。病気もあるなんの困った事も、みんなと同じにあるけれども、けれどもねその受け方次第ではね、その受け方次第では、そこから今まで受けられなかったおかげが、受けられるということだけは絶対なものなんだと。うん惟はいわゆるお互いがですね確信持って、そこんところ信心していかなきゃいけんところです。いわゆる信の薄い人、信の無い人でんでもです、これだけは絶対信心してみなさい。
 例えば災難にも遭います、難儀にも遭うけれどもね、そこんところ元気な心で受けるとか、有り難く受けるとかという心の状態が、信心によって鍛えられていく、またできてくるとです、そこから、一段と輝かしいおかげになってくるということだけは、もう、これは絶対論として説明ができる。これは皆さんも、そこんところの確信は持って頂きたい。そこんところの確信を持たないと、今日私が言う48節の御理解につながってこない。今日の。ね。なら例えば私のこと言うてもいいでしょう。ね。
 もう、それは、目の前が真っ暗うなるようなことがおきておりますけども、その都度に、いわゆる椛目・合楽を通して、その都度に合楽はおかげを受けてきた。いわゆる、大坪っちいうおかげを受けてきたんです。私個人でも、そういうことのたんびに一回り大きくなった。おかげが必ず、一回り大きくなってきておるです。だからこれだけは絶対、これはもう大地を叩くほどしに、間違いないことなんだと。してみると、信心さしてもらわなければおられんじゃないかと、いうような説明ができますよね。
 だから皆さんも、そういうおかげを頂かなければです、そういう質問に対して答えることができん。ね。信心しよっても災難にも遭う。雨にも遭やぁ風にも遭う。けれども、ときに折れんですむ、濡れんで済むというのを信心のおかげならです、そういうことがあったことを境に、必ず繁盛の道が、辿られるとか、そういうことの境にです、一段、おかげの世界が広うなってくるというようなね、おかげ。
 これは、もう、じゃろうぐらいなことじゃなか。巡りのお取り払いとか、神様の御都合てな、あいまいなもんじゃない。もう絶対のものなんだ、と、説明ができれるところまで、お互いの信心がね、いわゆる確立しなければ。信心の確立というのは、そういうことだと思う。そこからじゃ確信に満ちた、いわば生活ができる。そこで例えば、三男さんの例をとりますとですたい。
 そういうときにですたい、よしこれはもう、うんなら最悪なことになってもよいという頂き方なんです。ね。その問題はもういよいよ、自分が考えておる最悪なことになってもよいけれども、そん時はそん時で、それをがっちりと受ける、だけだという信心です。ね。そしてです、ね、それによって一遍崩れさってしまったものが、新たなもっと素晴らしいものが、そこから誕生することを確信して行くところの信心になればですね、どういうことになりますか。
 その最悪な事態のそのことにですら、お礼が言えるということになるじゃないですか。お互いがどういうことに出会うか分からん。そういうときにです、ね、何が崩れても、潰れてもです、ね、死んでも生きてもです、ね、そのことをです、元気な心で受けていこう、有り難く受けさせて頂こうということを考えたらええ。そうすれば絶対、今私が信心の確立という、そういう信心が確立さえしておればです、確信が持てる。
 これは死ぬかもしれん。これは消えてなくなってしまうかもしれん。けれどもそこから大きな節が、から大きな枝が出る。大きな芽が出る。それから今までよりもっと大きなおかげが受けられるんだという確信が生まれてくる。私どもが酒の配給をしておりましたときに、ね、そんそのいろいろ、神様に一生懸命おすがりいたしましたけれども、酒の配給はできなくなった。ね。時に私思うたです。これはもう実感でした。
 なら親先生にお届けするなら、そりゃどうすんのと言う様な、あぁ親先生が言うてくださるほどしじゃった。そりゃそうでしょう引き揚げて帰ってきておる、椛目におるそれだけの者が、ただ酒の配給のあるからこそ、細々ながら生活できたんですから。それを取り上げられるというのですから。できなくなるというのですから。けれどもね、神様が生命の糧のようなものを取り上げなさるのだから。
 けれどもねこれは神様が、これよりもっと素晴らしい商売を与えて下さるな、これが私の確信でしたよ。ねぇ。これは必ず是でおかげになりますと言う様に、私はお取次ぎさせて頂いた。だからそうそこのところに立ち至ったときにです、ね、いわゆる信心の確立が、出来ておらんとそれをね、これだけお願いしたばってん、おかげ頂ききらじゃった、ということになってくるんです。
 だからあぁあになりゃね、やっぱあぁあですよ。だからそこまでの信心は確立しておけということ。またそういう信心がでけとらなければ、この48節の「ままよ」と言う様な心なんか生まれてきませんよね。根本根本的に皆さんが、ね、信心の何か様々な質問受けられたときに、ただそのくらいな事の説明は一つ、是だけは絶対のものとして、話せれる事実をね、自分でも体験しておかないとお話ができません。
 そんなに心強いものかと。そんなにも間違いのないものか信心とは、と言う所をね。皆んなに与えていけれるおかげを頂きたいと思うんですね。そこで、ね、そこでならそういう信心を一つ土台として、例えば信心が出来る様になったらどう言う事になるでしょうか。なら、わが子の病気でも、かわいいかわいい、なるほどかわいいと言う事はですけども、ね、この難儀、ね、このことの難儀。そりゃなら伊藤さんの例を取って、必ずしも子供ということではない。
 けれどもねこのことを境にね、よりすばらしい信心が頂けるんだぞ、展開してくるんだぞと言う事が解って来ると、もう願うと言う事やら頼むと言う事やらではなくてね、もうその事に対して、もう早々と御礼が言えれることになってくる。神様また又是で一回り大きくなれますという御礼が言えれるぐらいなね、そんな信心がでけてきたなら素晴らしい。ね。言うならば、御礼御礼で通っていけれる、どんな場合でも。
 ホントの事が信心の確立ができたら、ね、神様に御礼申し上げて下さいと言う事になってくる。皆さんもこの11月の月という月が、期せずして一心の真を捧げて願うという焦点。合楽の信心の焦点にです、もう一番うんピッタリ、あの11月の月ほどその事にみんなが、一心を込めさして貰え、捧げさして貰える事なかったというほどしに、幹三郎の病気の事に、皆さんが一心になられました訳です。
 一心の真を捧げて願われた。それが最近ではもう願うと言う事よりもです、日々一心の真を捧げての御礼に段々皆さんなっておられると言う事。毎日毎日家内が一時のご祈念に、御礼に出て参りますもう日に日に、もうそれこそゴロゴロおかげを頂きよるお届けですもんね。昨日なんかは一人で治療に参りましてから、その主治医の先生が是は大坪君是はもう入れ歯ばしてよかごと、よかなっとるばいと言わしゃった訳です。 だから僕のと誰んとよりもおかげ頂きよるち。
 ほいで入れ歯入れられたらね、ま自分としてはここがちょっとひっこんどる所が、まちったあ見良いようになると言った様な事をね、そのう言うておったといって、昨日家内がお届けしております。と言う様にですね、もう日に日に、あの人が参って来ると楽しみな位にですね、そのうゴロゴロおかげを頂きよる様子を、聞く事が出来るですからもう願うというよりも、御礼を申しあげる事の方が多い。
 だから皆さんもそれを聞かれてから、昨日熊谷さんじゃないんですけれども、もうホントに毎日毎日そのことを聞かせて、はじめの間は、幹三郎そこのことを聞くとね、怖いごとあった。どういうことになっとんだろうかと思うて。ところが最近、でも楽しみである。また、お礼を申し上げる、いうなら分野が広うなったといわれてます。御礼を一身の真を捧げて、御礼を申し上げさして頂けれるというように、いわば、今ではおかげを、これは幹三郎のことだけにおいてもそうであります。
 そういう例えば信心が、この12月にも愈々、今月も最後の締めくくりの月であります。一年間を振り返ってみて、ホントに信心もできませんのに、この様なおかげを頂いてという、ことになって参りましょう。また御礼の対象になるものを、もうホントにたくさんありましょう、ね。そのために今月は、精進さして頂こうじゃないかというのが、12月の焦点になります。ね。教祖のあれが出来て参りました。
 今日の月次祭には間に合うそうですが、御礼御礼のための精進と、ね。私も金光様のご信心を、この御礼のために、なんか頼まんならんけん精進しよると言った様なのではなくてですね、もうホントにあれを思うても、これを思うてもおかげ頂いておるという事実をですね、神様におかげを頂いて有り難うございますというだけではなくて、その御礼のために精進する。御礼のために修行すると言った様な事になってきたら、どんなに素晴らしい、有り難いことになってくるだろうかと思います。
 12月はどうでも自分がいうならば、一年中の御礼を申し上げなければならない月でもあります。ね。ですからどうでも一つ御礼のための精進が、いよいよ本気で御礼のための修行が出来る様なおかげを頂かして頂きたいと思う。御理解48節、ね。いうならわが子の病気でもと、いうならほって置く様な心を、ね、なって信心してやれ。おかげが受けられると。と言う事をもう一つ言わば越えておる。
 もう一つ超越しておる。わが子の病気でも、驚いてるだんじゃなか。いやぁこれでまた、おかげが受けられるぞというわけなんです。だからもうそこにすでに御礼が言えれると言った様な事にまで、信心は高められていくものなんです。ね。そこん所を、一つ皆さん、今月は焦点として、おかげをまぁ共々に頂いていきたいと、言う様に思うとります。
   どうぞ。